明智光秀の善政を語り継いだ丹波の領民達は、「御霊さま」となった光秀のために大祭を行っていることからも、いかに慕われていた領主だったかがうかがえます。福知山では「福知山御霊大祭」、亀岡では「亀岡光秀まつり」や「ききょうの里」といったイベントが今もなお開催されています。
当時は、どこの土地においても必ず「国人衆」という中間的支配者が存在していました。領民は国人衆などによって支配され、その国人衆らは領主によって支配されるといった形が、鎌倉時代後期あたりから続いていました。明智光秀は、この様な古い体制を排除し、その土地のことをよく知る国人衆たちを家臣として取り立て、代官に任用します。無駄を省き、人材を上手く活用した光秀の政治手腕のひとつといえるでしょう。
旧幕臣衆を家臣団に組み込み、織田信長軍の中でも最も大きな軍団へと成長した明智光秀は、出身・家柄などは関係なく能力主義でポストを決めていきました。このあたりは信長と相通じるものがあったといわれています。しかし、二人の最も大きな相違点は、光秀は家臣の心情を深く理解し、信長軍の中では「途中入社組」である自分を全力でバックアップする家来に感謝し、裏切らなかったことです。光秀の家臣に対する労いは、合戦で討ち死にした家臣を列記し、近江国の西教寺に供養米を寄進しているのをはじめ、合戦で負傷した家臣に対する疵養生の見舞いの書状がいくつも残っていることからも、家来思いの光秀像が伝わってきます。
18 条からなる家中軍法は、明智光秀が本能寺の変の1 年前に福智(知)山城で制定したものといわれています。1 条から7 条までは、軍団の秩序と規律について記し、8 条から18 条までは、100 石単位の禄高に応じた軍役の基準を明確にしています。また、「定家中法度」では武具の置場所から織田家中の他の部将への挨拶の仕方まで記してありました。それまで織田家中には軍法は存在していなかったこともあり、他の部将もこれに倣って、家中軍法を作ったようです。
明智光秀軍法(御霊神社蔵・福知山市)
戦国時代において城は、戦闘を第一に考えるのが一般的でした。いわゆる「山城」と言われるものです。しかし、明智光秀の場合、自然の利点を活かした坂本城や亀山城、福智(知)山城など、領主として自ら築いた城は、領民の暮らしと一体になり、領民の目線で統治するといった考えがうかがえる「平山城」だったということは非常に特徴的といえるでしょう。光秀は城を、単なる戦の砦ではなく政務の館として考えていました。
寛政五年 山陰丹府桑田亀山図
(個人所蔵)
明智光秀は本能寺の変で信長を討った後、上洛すると京周辺の朝廷や町衆・寺社などの諸勢力に金銀を贈与しました。そして、洛中や丹波の地に対して地子銭(土地税・住宅税に相当)を永代免除するという政策を敷きました。この様に、光秀は丹波の民にとっては良策をもたらす領主だったのかもしれません。
光秀の功績をたたえる句碑
(福知山市 御霊神社内)
かつて福智(知)山を流れる由良川が土師川と合流する地点は、たびたび氾濫を起こしていました。天正8年(1580)明智光秀は福智(知)山城下の建設に伴って、河川の氾濫を防ぐために由良川の流れを大きく北に付け替えるという大規模な治水工事を施しました。
その際築かれた堤防は「明智藪」と呼ばれ、領国経営の根幹をなしたこの工事の功績により、光秀は丹波衆によく慕われる事となりました。
明智藪(福知山市)