元亀元年(1570)、越前の戦国大名、朝倉義景を討伐するため、織田信長軍は朝倉方の山城「手筒山城」と手筒山北面の峰上にある「金ヶ崎城」を混乱させ、開城させることに成功しました。一気に朝倉軍の本拠地とされていた一乗谷を目指す信長軍に浅井長政の裏切りの一報が入ります。一瞬にして背後からの裏切りにあった信長軍は前後を挟まれ、窮地に立たされることになりました。
急遽予定を変更し、関峠を経て京都に抜け出すことになった信長軍の後衛部隊を任されたのが、木下藤吉郎秀吉、池田勝正、明智光秀の3 人でした。木下軍は金ヶ崎城に居残り、信長軍本隊の退却時間を稼ぎ、明智光秀と池田勝正は背面より崩れそうになる兵をよくまとめつつ、迅速に後退させることに成功しました。
絶体絶命のピンチになった時でも冷静かつ迅速な対応ができる、織田家の家臣団はやはり戦国の世の中でもエリート集団の集まりだったことがいえます。
元亀元年(1570)、浅井・朝倉軍が逃げ込んだ比叡山を織田信長が囲み、両軍が対峙する「志賀の陣」が起こりました。この戦いで弟・織田信治と宇佐山城の森可成を失った信長の怒りは収まらず、一番の矛先は浅井・朝倉軍をかくまった比叡山に向けられました。
比叡山焼き討ちを密かに企図した信長は、可成亡き後の宇佐山城に明智光秀を入れ、光秀から比叡山焼き討ち準備完了の報告を受けた信長は、近江一向衆の金ヶ森城を攻略後に石山本願寺へ向かうと見せかけて比叡山を包囲、元亀2 年(1571)9 月12 日、全軍に焼き討ちを命じました。その後、光秀は比叡山焼き討ちの功労者として比叡山延暦寺の遺領を信長から与えられ、織田家臣の中で初めて居城の築城までも許されました。一方で光秀は、経典や高僧を「独断で助けた」と伝えられ、やがて光秀が坂本城主になると、領内となった比叡山延暦寺を手厚く保護しています。
織田信長を悩ませていた大坂・本願寺との講和が天正8 年(1580)に成立(石山合戦終結)。
久しぶりの平穏な正月を迎えた信長は、正月15 日に安土城下で行われる左義長(新年の火祭り行事)に、「爆竹を打ち鳴らしながら騎馬行進を行い、思い思いの出で立ちで参加する」よう触れを出しました。当日は信長自身も奇抜な装束でまつりに臨み、たいそう評判になったとのことです。
信長は京でも大規模な馬揃えをするよう指示し、明智光秀は奉行を務めます。これらの行事は、まさに戦国の世の終わりを告げ、新時代の到来を人々に予感させる出来事でした。
京での御馬揃えは正親町天皇も臨席のうえ盛大に行われ、光秀はその手腕を存分に発揮し、家臣団で最も重要なポストへと駆け上がっていきました。
明智光秀の娘として生まれた玉子は、信長の勧めにより細川忠興の正室として嫁ぎ、子宝に恵まれます。
しかし父光秀が本能寺の変で主君である信長を討ったことで、玉子は逆臣(謀反人)の娘というレッテルを貼られることになりました。玉子は丹後の山奥にある「味土野(みどの)」に幽閉されることになります。幼い子どもと離れて過ごさざるを得なくなり、神仏に心の拠り所を見つけたいと思った玉子の心境は理解できるように思えます。
幽閉を解かれた玉子はひそかにカトリックに入信し、「ガラシャ(伽羅奢)」の洗礼名を受けました。その後徳川方についた忠興の不在をついて石田三成が人質に取ろうと屋敷を包囲すると、ガラシャは家臣に槍で胸を貫かせ、短い生涯の幕を降ろしました。
ガラシャは生前、丹後の地に大伽藍(教会)の建立を願っていたと伝えられており、ガラシャが没して約300 年後となる明治29 年(1896)にカトリック宮津教会が建立され、奇しくもその願いは実現することになりました。
ガラシャは家臣に槍で胸を貫かせ、短い生涯の幕を降ろしました。
明智光秀の家臣斎藤利三の娘として生まれたお福は、後の春日局です。なぜ、江戸幕府であれだけの権勢をふるうようになったのかは様々な説がありますが、徳川家康は、たとえ女性であっても能力のいかんによっては重要な職務を与えており、お福もその一人であったのではないでしょうか。また、徳川秀忠の後継者争いの時に、実子のように愛した家光を将軍にするため、江戸城を抜け出し、駿府城にいた徳川家康に直訴したことはあまりにも有名な話です。家光は、実母以上にお福を遇したとされ、その後、何百年もの江戸幕府の秩序としきたりを築き上げ、大奥の礎を作ったといわれています。